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セガレースゲームが好きな方、当時よく遊んだ方は、是非見ていって下さい。 Contents. !-Ⅱ」がスペシャルカラーになってネットクレーンモール『とるモ』に先行登場! ナムコの定番レースゲーム『リッジレーサー』シリーズの家庭用4作目。 『リッジ』、『レボリューション』、『レイジ』の路線とは少し趣を変えた、ハイセンスなインターフェースデザインと恒例のリッジサウンド、そしてレースゲームとしては珍しいストーリーモードを備えた異色の作品。 バンダイナムコ研究所のブースでは、「ポールポジション」(ナムコ:1982年)、「アウトラン」(セガ:1986年)、「チェイスhq」(タイトー:1988年)といった、レースゲームの歴史を語るうえで欠かすことのできない初期のタイトルの企画書や仕様書が展示されていました。レースゲーム … 2020年; 2019年; 2018年 ... (株)バンダイナムコゲームスが(株)ディースリーを子会社化 ; ガンダム30周年を記念した30周年プロジェクトの概要を発表; 2009年2月. ナムコ (namco) とは、 かつてパックマンやギャラガ、ゼビウス等の人気 ゲームをリリースしていたゲーム制作会社。 現在のバンダイナムコエンターテインメント。; アミューズメント施設運営および関連機器製造販売事業を行う企業。 2代目ナムコ。 現在のバンダイナムコ アミューズメント。 !-Ⅱ」がスペシャルカラーになってネットクレーンモール『とるモ』に先行登場!! ゲームセンター ; 2020.12.03 ~ 2020.12.27. 本作は、レースゲーム『Project CARS』の最新ナンバリングタイトル。グラフィックや演出、車種が大幅にパワーアップしているほか、アシスト機能を強化して初心者にも遊びやすいつくりになっています。 番組では、ゲームの各種設定やモードの紹介をしているほか、レースのコツを忍ism ども。管理人のあえんです。今回はシミュレーションゲームの中でも歴史シミュレーションゲームで個人的に長いこと遊べた、遊んでいる作品の紹介記事になります。っといってもkoeiシリーズが多めになりますが…汗当ブログでもちょこちょこと色々なところで コンピュータゲームの歴史 ... タイトー『スピードレース』 - 日本初のテレビゲーム式レースゲーム 。 1975年. ファミスタ 進化の歴史(1986 ~ 2018) | Evolution&History Famista Stadium Games 1. 「カーレースゲームの歴史を調べる」moto('91)のブログ記事です。自動車情報は日本最大級の自動車SNS「みんカラ」へ! 初のアドベンチャーゲーム『アドベンチャー』が登場。 『ダンジョン』。最初期のコンピュータRPGの1つ。 GI(General Instrument)社がTV製造用に開発したワンチップ・テレビゲーム専 … 1 セガレースゲームの歴史. 今回の「バンダイムコ知新」は、1990年代前半までのナムコの「レースゲーム」の制作に携わった3人のクリエイターにお話を伺います。レースゲーム制作技術の変遷にともない、運転の「リアルさ」や「楽しさ」を追求してきた挑戦の歴史を紐解いてみましょう。, 大杉章1972年中村製作所(のちのナムコ)入社。数多くのエレメカ、ビデオゲームの制作にかかわった筺体「設計」のエキスパート。『フォーミュラX』『サブマリン』『シュータウェイ』『パックマン』『ギャラガ』『ファイナルラップ』『ギャラクシアン3』など、さまざまなナムコゲームの設計に携わる。, 岡本進一郎1979年ナムコ入社。『ポールポジション』シリーズや『タンクバタリアン』『ゼビウス』などのアーケードゲーム制作に携わる。家庭用ゲーム機でも、『スターラスター』『ゼノサーガ』シリーズ、『テイルズ オブ』シリーズ、『ゴッドイーター』などをプロデュース。, 岡本達郎1983年ナムコ入社。『ファイナルラップ』から始まり、『シムロード』『ダートダッシュ』『レースオン!』など数々のアーケードレースゲームの制作に携わる。『メトロクロス』のゲームデザイナーとしても知られ、その主人公のモデルは岡本達郎氏ご自身である。なお、岡本進一郎氏との間に血縁関係はない。, ――まずは、エレメカ(※1)のレースゲームについて伺います。中村製作所(のちのナムコ)時代のエレメカは、レースゲームが多かったのでしょうか?, ※1 エレメカエレクトロニクスとメカトロニクスを組み合わせて作られた造語「エレクトロメカニカルマシン」の略。ブラウン管を使わないすべてのアーケードゲームを指すという分類が一般的。大杉:そういうわけでもないですね。景品を獲得するプライズ型ゲームのほうが多かった。最初に登場したレースゲームは、『グランプリ ※2』(1969年) や『レーサー ※3』(1970年) ですね。, ※2 『グランプリ』1969年稼働。ナムコ初のエレメカのレースゲーム。平面投影装置を使用することで、道路が動くように見える。※3 『レーサー』1970年稼働。立体モデルを使った投影装置を搭載し、 リアルな自動車運転の感覚が体験できるエレメカ式レースゲーム。「エレメカのナムコ」を世に知らしめることになった。, ――その後に登場する『フォーミュラX ※4』(1973年) というエレメカのレースゲームが、大杉さんが初めて設計にタッチした作品だと伺いました。※4 『フォーミュラX』1973年稼働のエレメカ式レースゲーム。ほぼ原寸大のF1筺体に乗ってドライブできる、『レーサー』の大型版。1976年に、これを小型化した『F-1』が登場。大杉:はい。私の入社が1972年なのですが、部分的なかかわりも含めたら、当時はほとんどのエレメカ制作に携わっていました。以前のインタビュー(「バンダイナムコ知新」第1回 前編) でも言いましたが、そのとき開発スタッフは10人しかいなかったですしね。『フォーミュラX』だと、ハンドルの装置、スクリーン、タイヤの設計をやりましたね。――エレメカのレースゲームの設計には、どんな苦労や努力がありましたか?大杉:苦労といいますか、タイヤとかハンドルとか、いいものを使ってたんで盗まれるんですよ。それを盗まれないように対策する(笑)。――ええっ!? プロ野球ファミリースタジアム 2. バンダイの歴史 バンダイ公式サイトへ ; バンプレストの歴史 バンプレスト公式サイトへ; バンダイネット ワークスの歴史; バンダイナムコエンターテインメント沿革. 株式会社バンダイナムコエンターテインメントは、本格レースゲームシリーズの最新作「Project CARS 3」につきまして、有料DLC第1弾『レジェンズパック(LEGENDS PACK)』を11月3日より配信開始いたしました。また、配信に合わせてレジェンズパックの内容を紹介する最新PVも公開いたしました。 90 競馬を体験できる競馬ゲーム。馬券を買って儲けるという遊び方ではなく、馬主や騎手といったホースマンの世界を体験するのが主流です。以前は『ジョッキーゲーム』を始めファミコンや64のゲームが人気でしたが、最近では3dsやps2、スマホのアプリでも楽しめます。 株式会社バンダイナムコエンターテインメントは、本格レースゲームシリーズの最新作「Project CARS 3」につきまして、有料DLC第1弾『レジェンズパック(LEGENDS PACK)』を11月3日より配信開始いたしました。また、配信に合わせてレジェンズパックの内容を紹介する最新PVも公開いたしました。 90 プロ野球ファミリースタジアム 2. ※ゲームの設置店舗、攻略法、仕様等についてのお問い合わせにはお答え出来ませんので、あしからずご了承ください。 ※製品の故障、修理等につきましては、製品に付属の取扱説明書に記載の連絡先へお願い申し上げます。 ども。管理人のあえんです。今回はシミュレーションゲームの中でも歴史シミュレーションゲームで個人的に長いこと遊べた、遊んでいる作品の紹介記事になります。っといってもkoeiシリーズが多めになりますが…汗当ブログでもちょこちょこと色々なところで 歴史; 歴史 . 1970年代 1971年:「ナムコ」ブランドを使用開始。 1973年:業務用ビデオゲーム第一弾、アタリ社の対戦テニスゲーム「ポン」を発売。 1977年:社名も「ナムコ」へ変更。 1978年:ナムコオリジナル業務用ビデオゲーム第一弾、「 … セガレースゲームの歴史(90年まで) についてお伝えしていきます。 時代と共に、どのように進化していったのか. ナムコ(後のバンダイナムコアミューズメント)が開発し、1982年9月にリリースしたレースゲーム。 続編として、鈴鹿サーキット、ロングビーチ(ゲーム中ではシーサイド)を含む3種類のコースが追加された『ポールポジションII』(1983年11月発売)もある。 ゲーム業界に興味があるという人必見! 大手ゲーム企業の、ソニー・任天堂・バンダイナムコhd を、<組織文化・強み・待遇>の3点から徹底比較します! これを読んで、ゲーム業界の全容を掴みま … レースゲームは昔からゲームセンターの花形とも言えるほど根強い人気があります。その人気を獲得してきた名機の成立や一般家庭への普及の歴史を、古くは1959年まで遡って紹介・解説しています。ともに懐かしいゲームを振り返ってみませんか? レースゲームの歴史. 競馬ゲームアプリの無料おすすめランキング一覧。g1、天皇賞など競馬や血統に関するゲームを集めました!レースに参加するだけでなく、馬主になってイチから競走馬を配合し最強馬を育てあげる育成要素も。もしかすると伝説の名馬に出会うことができるかもしれません。 歴史; 歴史 . 歴史 1955年:故中村雅哉が「中村製作所」として創業。. プロ野球ファミリースタジアム'87 3. コンピューターゲームの誕生「ゲーム機以前のゲーム機の歴史 」 ... 中村製作所が、1976年に開発したレースゲーム「f1」は、アタリを通して、アメリカで販売し、それなりにヒット。 これが日本産のアーケードゲームが、アメリカで本格展開された初事例であった。 パックマンの登場 1980 3dレースゲームの元祖は、1988年にアーケードゲームとして登場したナムコの『ウイニングラン』。これ以前にも『ポールポジション』など疑似3dレースゲームはありましたが、純粋な3dレースゲームとしてはこのウイニングランが最も古い作品となります。 コンピューターゲームの誕生「ゲーム機以前のゲーム機の歴史 」 ... 中村製作所が、1976年に開発したレースゲーム「f1」は、アタリを通して、アメリカで販売し、それなりにヒット。 これが日本産のアーケードゲームが、アメリカで本格展開された初事例であった。 パックマンの登場 1980 ヒプノシスマイク-Division Rap Battle- Rhyme Anima ×ナムコキャンペーン. ナムコのゲームソフトの一覧。例えば,ファミリーテニスアドバンス,ギャラクシアン,スーパーゼビウス ガンプの謎,ファイネストアワーなどがあります。 ゲーム業界に興味があるという人必見! 大手ゲーム企業の、ソニー・任天堂・バンダイナムコhd を、<組織文化・強み・待遇>の3点から徹底比較します! これを読んで、ゲーム業界の全容を掴みま … それはプレイヤー、つまりお客様が盗っていってしまうということですか?大杉:そうです。『フォーミュラX』は、次の日に現場に行ったらタイヤが4本ない、なんてことがありました。一同:(騒然)大杉:筺体がちょうど部屋みたいな作りになっているから、隠れられるんですよ。――ああ、ブラインドになってしまうわけですね。, 岡本(進):本物ならまだしも、エレメカのタイヤ盗んで何に使うんだ(笑)。大杉:いや、これは本物のスリックタイヤを使ってたの。岡本(進):あ、そうなの? だけど、本当のタイヤとしては使えないでしょう?岡本(達):乗用車には使えないでしょうね、たぶん。――技術的な設計の苦労のほかに、盗難対策の苦労もあったのですね。大杉:技術的な部分でうまいことやったなぁと思うのは、『F-1 ※5』(1976年) ですね。以前のインタビュー(「バンダイナムコ知新」第1回 前編) でも少し触れましたが、『レーサー』は投影の電球が少し高い位置にあったんだけど、続編の『F-1』では電球を特注して、中のフィラメントの位置を下げたものを使用しました。そうすると、視点が下がって迫力が出る。※5  『F-1』1976年稼働のエレメカ式レースゲーム。『フォーミュラX』を小型化し、視覚効果をパワーアップさせた。海外でもヒットし、翌年にはさらにスピード感が増した『F-1 マッハ』も登場。岡本(進):基本的に点光源でスクリーンに投影しているから、光源の上下で、ビデオゲームでいえばCGで視点が変わるような感じになるんだよね。――オリジナルの電球の使用で、以前よりもさらにリアルなドライバー視点となった、迫力のある画面が実現したわけですね。, ――ナムコのビデオゲーム初のレースゲームとなった『ポールポジション ※6』(1982年) についてお話を伺いたいと思います。岡本進一郎さんがナムコに入社して最初に制作にかかわられたゲームが、『ポールポジション』だったのでしょうか?, ※6 『ポールポジション』1982年稼働のレースゲーム。当時はトップビュー視点のレースゲームが主流だったため、本作の立体的な表現はゲーマーに衝撃を与えた。1983年には3種類のコースが追加された『ポールポジションⅡ』 も登場。, 岡本(進):最初は『タンクバタリアン ※7』(1980年) だけど、『ポールポジション』も並行して企画が進んでいた気がする。『ワープ&ワープ ※8』(1981年) もやってたし。, ※7 『タンクバタリアン』1980年稼働。黄色い戦車を操作して敵を撃破するシューティングゲーム。青い敵の戦車を一定数倒せばステージクリア。2人同時プレイが可能になった『バトルシティー』というリメイク版ある。※8 『ワープ&ワープ』1981年稼働のアクションゲーム。スペースワールドとメイズワールドという2種類のフィールドを、ワープゾーンを経由して行き来できるのが特徴で、スペースワールドでは銃で、メイズワールドでは時限爆弾で敵を倒す。後年、『ワープマン』と改題したファミコン用のリメイク版も作られた。――そんなに並行してたくさんのゲームを作られていたんですね。岡本(進):まあ、あのころのゲームはシンプルだからね。大杉:2Dのビデオゲーム制作は早かったよね。――『ポールポジション』を作ることになった経緯は……?岡本(進):上司に澤野和則さん(※9)という方がいたんですが、(澤野さんは)そのころからビデオゲームでドライブゲームを作りたいと言っていた。澤野さんが、ゲーム画面を1枚絵に起こしたものを持っていて、それを入社早々の私に見せて「ほらほら、これやろうよ」って(笑)。, ※9 澤野和則『ギャラクシアン』や『ポールポジション』のデザイナーとして知られる。現在、株式会社アクリア取締役会長。, ――それが発端なのですね。岡本(進):僕が開発に配属されたとたんに言われたんですよね(笑)。で、けっこう車は好きだったんで、「やりましょう」と。, ――そのとき、プレッシャーはなかったんでしょうか?岡本(進):まあ、昔からエレメカで『F-1』とか見ていたから、コスト的にできるかは分からなかったけど、「技術的には可能かな」とは思っていた。ただ、トップビューのレースゲームじゃなくて、いきなり『ポールポジション』を作るというのはすごいよね。作り上げて「へぇ、できたんだなぁ」と感慨深いものはあったね。――そうですね。最初から3Dの後方視点というのは。岡本(進):エレメカ時代から雰囲気はつかんでいたとは思うんですけどね。――『ポールポジション』の制作で、苦労した部分をお聞かせください。岡本(進):自分が初めてかかわったビデオゲームだから、制御式みたいなものがなくて、急に機械工学の本とか読んだりしましたね。「クラッチとは何ぞや?」とか、そういうところから始まった。岡本(達):そういう部分のシミュレーションですよね。岡本(進):それも、本当の本物のシミュレーションじゃなくて、ゲームにしたときに耐えられるレベルのシンプルさにアレンジしなくてはならない。大杉:最初『ポールポジション』ができたときはね、我々設計の人間も乗ったんだけど、すごい難しくてさ。真っすぐ走れないし。岡本(進):そういう仕様のときがあったかもしれないね。大杉:当時の中村雅哉会長(※10)が乗って、「真っすぐ走れない!」って怒って帰っちゃったんだから(笑)。※10 中村雅哉1925年生まれ。1955年に有限会社中村製作所を創業。1977年に社名をナムコへと改める。2017年死去。一同:(笑)――でも会長自ら、ご自身で自社ゲームをしっかり体感されていたんですね。大杉:『ポールポジション』ってさ、審査に2年以上かかったんじゃないの?――御社の資料には、「3年の開発期間を経て完成」と書いてあります。岡本(進):ハードウェア的にもそのころ画期的だった「Z8000」というCPUを使ってんのよ。16ビットの。その当時、世界でそんなCPUを使ったビデオゲームはナムコのゲームだけじゃないか? というくらいだったね。, ■エレメカのレースゲームがなくなるほどのインパクト――『ポールポジション』が人気を博した部分はどこだと思われますか?岡本(進):やっぱり3Dで、実際に車を乗っているように運転できること。まぁ擬似3Dだけど、加速感とか、ステアリングとか、ブレーキとかを、あれだけリアルに感じ取れるようにしたビデオゲームは初めてじゃないかと思うよ。しかも、F-1のコースを使って夢の体験。――そのころナムコは、まだエレメカのレースゲームも作られていたのでしょうか?岡本(進):エレメカのレースゲームはもう、並行してやってなかったんじゃなかったかな?大杉:いや、『ポールポジション』が作られてから、俺もかかわっていたエレメカのさまざまなレースゲームが制作中止になっちゃったんだよ(笑)。一同:(爆笑)岡本(達):知らなかったなぁ(笑)。――『ポールポジション』というビデオゲームに、それだけのインパクトがあったということですね。大杉:我々現場も、「やっぱりビデオゲームはいいねぇ」という雰囲気でしたからね。岡本(進):まぁ、モノを見ちゃうとねぇ。大杉:モノのすごさと、あと、作り方のシンプルさだよね。――『ポールポジションⅡ』でコースが4つに増えましたが、最初から予定はあったんですか?岡本(進):これは、かなり最初から「やろうね」とは言われてた。大杉:TESTコースがすごい人気だったね。岡本(進):まぁ、シンプルで一番スピードが出せて爽快だからね。大杉:SUZUKAは難しすぎたよ。――『ポールポジション』の設計の面では、どんなエピソードがありますか?大杉:筺体自体はね、屋根があって乗り込むタイプが当時、流行っていたんだよね。いろんなニーズを集めていって、ああいう形になった。後ろを絞ってるんですよね。タイト感を出すとかなんか言ってさ。それで図面描くのがすごい大変だったんだから(笑)。岡本(進):ギアを何速にしようかと、喧々諤々(けんけんがくがく)あったんだけど、結局ハイとローの2速になったんだよね。大杉:このとき設計したアップダウンシフトのレバー、これがのちのゲームにもずっと生かされて、他社もみんなそれをマネしてきたんだよね。, ――そして、通信で8人対戦が可能となった『ファイナルラップ ※11』(1987年) の登場です。※11 『ファイナルラップ』1987年稼働のレースゲーム。最大8人までの同時プレイを実現した通信対戦は、当時の快挙として語り継がれる。のちに『ファイナルラップ2』(1992年) 、『ファイナルラップ3』(1992年) 、『ファイナルラップR』(1994年) と続編3作も誕生した。, 岡本(進):『ファイナルラップ』は、僕がかかわったのは企画書ぐらいです。そして「さよならー。あとはがんばってねー」と(笑)。――その後、岡本達郎さんにタッチされたと。岡本(達):はい。プログラマーは『ポールポジション』と同じ田城幸一さん(※12)という人です。田城さんがハードもできる人だったんで、通信対戦できるよーと澤野さんに話を持っていったら、「よし、『ポールポジション』を通信でやろう!」と。※12 田城幸一1978年ナムコ入社。『ギャラクシアン』『ラリーX』『ポールポジション』『ファイナルラップ』など数々の作品のプログラムを担当。――そこから『ファイナルラップ』の制作が始まったわけですね。, 岡本(達):もう基板自体の性能が上がっているので、当然グラフィックも良くしないといけないということになった。そこで、模型をカメラで撮ったものをデジタイズドしたりしました。深夜、みんな帰った後に部屋を真っ暗にして、回転テーブルを作って模型の角度を少しずつ動かして写真を撮る……。それを4車種全部やりましたよ。, 岡本(達):あとから、1つの角度だけ撮っていないのが発覚したりとかしてね(笑)。そういう凡ミスを多々くり返しながら作っていきました。そんなアナログな時代でしたね。, ――『ファイナルラップ』は『ポールポジション』と違って予選がありませんでした。岡本(達):『ポールポジション』のロケーションテスト(以下、ロケテスト ※13)のときは、予選落ちする人が続出したんです。それで、ものすごいインカムが上がったと聞いていた。で、最初は澤野さんから「これ(『ファイナルラップ』)にも予選を入れろ」って強い要望がありました(笑)。 ※13 ロケーションテストアーケードゲームを世に出す前に、ゲームセンターなどで行われるテスト。ゲームバランスの調整や市場調査などの意味合いを持つ。一同:(爆笑), 岡本(達):でも、「友達と通信対戦するときに、1人が予選落ちで1人が通過するってあり得ないですよね」って澤野さんに言って。「これには絶対予選はつけません」って涙目で訴えて、そこはゴリ押しさせてもらいました(笑)。, ――そこまで強く上司に直訴できる岡本さんの熱意がなければ、『ファイナルラップ』は予選アリのシビアな仕様になっていた可能性があるわけですね(笑)。, 岡本(達):絶対に全員で同時に終わって、それで順位が決まり、勝った負けたを楽しんでほしいという願いがありましたからね。, ――その、通称「ラバーバンド(※14)と呼ばれる優遇システムは、ナムコの『ファイナルラップ』から始まったのですね。※14 ラバーバンド下位のプレイヤーほど車の性能が上がり追いつきやすくなるという弱者救済システム。車同士がゴム紐でつながれているような様子からラバーバンドと呼ばれた。『ファイナルラップ』で採用され、後のレースゲームに多大な影響を与えた。, 岡本(達):そう、ここから。ラバーバンドは誰が名付けたのか知らないけど。我々は「追いつき性能アップ」とか言ってた(笑)。, 岡本(達):まずはそういうのがない状態のプロトタイプがありました。慣れている人はちゃんとプレイできちゃうんですけど、たまにやったことない人に遊ばせると、全然相手にならない。「こりゃあ、何とかせないかん」と導入しました。, 岡本(達):トップの人は遅くはならないですよ。後ろが速くなるんです。ここ、微妙に違いますから(笑)。, ――『ファイナルラップ』の通信対戦は、当時としては斬新なシステムでしたが、プレイヤーにはすぐに受け入れられたのでしょうか?, 岡本(達):ああ、これはロケテスト1日目のときは悲惨でしたね。その前に、まず社内発表をしたときに商品部の方が、「こんなつまんないゲーム作るなんて。もうナムコも終わったな」という捨てゼリフを吐いて帰っていったというのがあって、「やべぇ……」という雰囲気でロケテストが始まったんです。新宿にあるナムコ直営店のプレイシティキャロットに、同じ筺体を4台並べたんですが、それで通信対戦できるなんて誰も思っていない時代ですから、みんな1人ずつ遊んでいくんですよ。そうすると、つまんないゲームなんです(笑)。だからみんな首をひねりながら帰っていって……。, 岡本(達):それで、店にあった交流ノートに「新製品なのに『ファイナルラップ』全然つまらん。『ポールポジション』のほうがおもしろい」なんてことを書かれてしまった。このままではまずいということになって、次の日だったかな。スタッフが会場に詰めて、誰か1人筺体に乗ったら、スタッフもすぐに乗ってお相手して、通信対戦で楽しいシチュエーションを作るという「おもてなしプレイ」を実践したんです(笑)。, 岡本(達):1人でも筐体に乗ってお金を入れると、「エントリー受付中」という状態になる。そうなったら、1人入り2人入って……1プレイのうち3人がおもてなしプレイという状態。そうすると、おもしろさがその人に伝わって、次は仲間を連れてきて対戦してくれる。そうして徐々に通信対戦プレイの魅力が伝わっていったんですね。, 岡本(達):そうですね。最初は不安だらけでした。おもしろさがまったく伝わっていないなと……。, ――おもてなしプレイをナムコのスタッフがやっているということは、お客様は気づいていたんでしょうか?, 岡本(達):分からないふうにはしていましたが、最後のころは気づいていた人も多かったと思います。スタッフのほうを見ながらお金を入れている人も何人かいらっしゃいましたから(笑)。「早くやりましょうよ」と目で訴えかけていたり(笑)。, 岡本(達):作りましたね。そのロケテストのときのハンドルが、クルクル回る『ポールポジション』のときのハンドルだったんですよね。, 岡本(達):そう。ショーに出したときもそのハンドルだったんだけど、発売するまでの間に、大杉さんが改良したハンドルを作って来て、「これにしよう」と。「いいじゃないですか!」みたいな話になってハンドルを交換した。あのハンドル作るの、早かったですね(笑)。, 岡本(達):知らないですよ(笑)。でもあのハンドルは、『ファイナルラップ』に向いたすごくいいセッティングになっていたので、本当に変えて良かったです。, ――そんなギリギリの状態で、ハンドルという重要な部位を改良するなんて、お客様に少しでもいい環境を提供したいという大杉さんのプロ意識が垣間見えます。ほかに、設計面で苦労されたところはありましたか?, 大杉:最初の可動筺体ということで、力のかかる部分を研究して、なかなか難しい制作となりましたね。あと、思ったより売れたんですよ(笑)。どういうことかというと、椅子の生産が間に合わなくなってしまった。FRP(繊維強化プラスチック)は、基本1日に1個しか取れないから。型を40以上作って、最後はインドネシアまで行って作って(笑)。, ――『ファイナルラップ』では、ゲームセンターで店員や常連客が実況するというスタイルが生まれたと伺ったんですが、そのあたりは想定されていましたか?, 岡本(達):全然想定していなかったですね。でも当時、そうやると盛り上がるということで、ナムコの店舗運営の方がやってくださったらしい。特に大阪の第4ビルというところが有名で、そこでやっていたそうなんですよね。, 大杉:営業の人によく聞いたんだけど、『ファイナルラップ』は一番営業努力に見合うゲームだと言っていたね。, 岡本(達):実況を筺体側でするようにした『スズカエイトアワーズ ※15』(1992年)と いう二輪のゲームもありました。楽しませたいということにすごい貪欲だったプログラマーがやってくれていたんですけど。, ※15 『スズカエイトアワーズ』1992年稼働のオートバイレーシングゲーム。鈴鹿サーキットにて、最大8人までの通信対戦プレイが可能。日本コカ・コーラがオフィシャルスポンサーとなっていた。岡本(進):プログラマーが凝り性だと、要素が充実するよね。, 岡本(達):そうですねー。ビデオゲームは、作るのは最終的にプログラマーですからね。こっちが頼んでいないのに勝手にいろいろ作られちゃうこともあるけど(笑)。, 岡本(達):そうですね。8人同時でプレイするというのは、ある程度想定ができる。だけど、2人でプレイしていたり、3人でプレイしていたりという状態が起こり得る。全部のパターンをデバッグしていかなきゃいけなかったですね。, ――そしてビジュアルが飛躍的に進化した『リッジレーサー ※16』(1993年 )の登場です。※16 リッジレーサー1993年稼働。テクスチャーマッピングやグーローシェーディングにより、映像が飛躍的に進化したレースゲーム。公道を突っ走る快感を追求し、コーナーでは豪快なドリフト走行が味わえる。アーケードと家庭用ゲーム機で、多数の続編も作られている。岡本(達):『リッジレーサー』は、僕は初期段階しかかかわっていないのですが……。『ファイナルラップ』、『ウイニングラン ※17』(1989年) の流れで、今回もF1にしろって澤野さんから言われたんです。「いや、今回はテクスチャーマッピングで、近くの動きがすごく明確に分かります。広大なサーキットみたいなところを走らせたら、その良さが全然出ないので、絶対に峠のほうがいいです」ってみんなで止めたんです。※17 ウイニングラン1988年稼働。ポリゴンを組み合わせ、リアルタイムで3次元CGを表示できる基板「システム21」を使用した、日本産アーケードゲーム初の3Dレースゲーム。実は『ファイナルラップ』より先に企画が動いていたそうだ。――そこでもきちんと、現場の方からの上司への進言があったのですね。初のテクスチャーマッピングゲームとしてナムコがレースゲームを選択した理由はなんでしょう?, 岡本(達):当時、レースゲームと格闘ゲームの制作部隊が違っていたんで、住み分けがうまいことできていた。で、レースゲーム制作部隊としては、テクスチャーマッピングを使ったレースゲームを作るということで、『鉄拳 ※18』(1994年) より先に『リッジレーサー』ができちゃったということですね。, ※18 『鉄拳』1994年に稼働したナムコ初の3D格闘ゲーム。4つの打撃ボタンや10連コンボ、そして個性的なキャラクターなど、独自の内容でセガの『バーチャファイター』シリーズとは一線を画していた。今なお新作登場のたびに大きなセールスを記録中。, ――当時、ローンチタイトルとして発売されたプレイステーション版の『リッジレーサー』(1994年)も話題になりました。, 岡本(達):アーケード版とプレイステーション版の制作部隊も別で住み分けていたんだよね。「よく別々に『リッジレーサー』作れたね」って話になったはず。, ――オフロード系の『ダートダッシュ ※19』(1995年) というレースゲームもありました。, ※19 『ダートダッシュ』1995年に稼働。シティコース、山道、ジャングル、雪原など、あらゆるコースを突っ走るオフロードラリー。障害物にぶつかって車の部位が取れても走れるダイナミックさが魅力。, 岡本(達):『ダートダッシュ』は僕ですね。今までのコンクリート上のレースとはちと違うモノをやらないかと言われて作りました。ところが、いろんな路面を出していたら、通信ができなくなってしまった。容量が増えすぎて(笑)。大杉さんの部隊に、空気バネによる振動を使って、悪路を走るような雰囲気の筺体を作ってもらいましたね。, 大杉:これはすごくいい感じが出たんだよね。プログラマーがうまかったんだよね、その感じを出すのに。ほんとはあの空気バネ、そういうところに使うもんじゃないんだけど(笑)。, 岡本(達):車が壊れていくと、それに合わせて筺体も激しく動く。あえてクラッシュしやすいコースにして、その辺の楽しさを体験してほしかったんですね。この作品は、生みの苦しみで最後まで大変だった記憶があります(笑)。「通信」と「動く」というのが、レースゲームのキーワードになっていた時代ですね。, 大杉:当時は、ゲームセンターのフロアの耐荷重も問題になっていたね。レースゲームの筺体はすごい重いんで(笑)。, 岡本(達):『エースドライバー ※20』(1994年) なんかもめちゃくちゃ重かったですね。, ※20 『エースドライバー』1994年稼働。『リッジレーサー』と同じ基板「システム22」を使用したレースゲーム。DXタイプではハンドルと連動した左右スライドシートを採用。さらに、BOSE社と共同開発したサウンドシステムで、全身でレースの醍醐味を味わえる。, 大杉:それより「壊れない」ほうが先ですからね。実車みたく軽量化していくと、すぐ壊れますから。, 岡本(達):それよりも、早く出すことが重要でした。ただ、筺体が壊れて直しに行くキャラバン隊もあって、楽しい夜を過ごしてましたよね(笑)。, 岡本(達):だって、お店が営業終了しないと修理できないから。年末の大晦日の前日ぐらいに仙台まで行って、そこから修理して、帰れないから泊まって、おいしいものを食べて帰ってくるという出張的なことになったりね(笑)。, 岡本(達):『ポールポジション』から『ファイナルラップ』『リッジレーサー』の時代は儲かっていて、会社としてはかなり売り上げに貢献していたと思いますね。, 岡本(進):作っているときは、僕は全然プレッシャーはなかったですね。ロケテスト見に行くときだけちょっぴりドキドキするくらい。, 岡本(達):おもしろさはみんなで共有していたので、制作中は「絶対に大丈夫」という自信は持っているんですけど、前述のように、ロケテストの初日に真っ青になったという経験はありますね(笑)。, ――ナムコのレースゲームはこうでなければならないというような、伝統的なものはありますか?, 岡本(進):個人的にはあまり感じなくて、各々好き勝手に作っているイメージがあるけど、作ったゲームの仕様書がきちんと残っていて、そういうのは伝統になっているかな。しっかりした仕様書を読むことによって、後からゲームを作る人たちもだいぶ参考になりましたね。一生モノの仕様書が残っている。, ――ナムコの仕様書は重厚なものですし、「こういうことを実現したいから、こういう仕様にした」という理由までもが書かれていますね。, 岡本(進):仕様書をここまできちんと書いていた会社は、たぶん当時はナムコ以外にはなかったんじゃないかなぁとは思う。あくまでも僕の想像よ(笑)。, 岡本(達):僕は『ファイナルラップ』から始まって、『リッジレーサー』と『ダートフォックス ※21』(1989年) 以外のレースゲームの通信系はだいたいかかわっているんですけど、常に「お客様同士が楽しめる」ということを第一に考えていました。仲間内で楽しめるレースゲームという部分だけは外さずに作ってきましたね。『レースオン! ※22』(1998年) ぐらいになると、もうだいぶ部下に任せていたんだけど、チェックするときは、その辺りをアドバイスしていました。, ※21 『ダートフォックス』1989年稼働。真上から車を見た視点で、基板「システム2」の回転機能を生かしたレースゲーム。最高4人まで通信対戦が可能。オンロード・オフロード入り混じった全6ステージをプレイできる。, ※22 レースオン!1998年稼働。小型カメラ「ナムカム」を搭載し、ゲームに自分の顔を出せるのが特徴。最大8人まで通信対戦でき、ぶつけたり邪魔したりなんでもアリの破天荒なレースが楽しめる。, 岡本(達):通信系は、最終調整が難しいんですよね。必勝法も作っちゃダメだと思うし、かといってクジ運みたいに技術の差が出なさすぎるのもダメなんで、その辺のさじ加減が難しかった。正解にたどり着いたのかも分からないまま、締め切りに合わせて世に出すことになる。その辺がドキドキでした。僕は、将棋じゃなくて麻雀的な勝負のつき方を目指していた。技術の差は重要な勝因要素だけど、運が良ければ初心者でも勝てることがある……そういうレースゲームを目指そうねと、当時周囲に言っていた覚えがあります。, ――今回の座談会で、ナムコのレースゲームは実に多種多様で、新作が出るたびに新しいことにチャレンジしていることがよく分かりました。, 岡本(達):当時、プログラマーをはじめ、制作スタッフみんなの意識の中に「お客様を楽しませたい」という強い思いがありました。おかげで、いろんなレースゲームができましたね。, 次回は「カーレースゲームの変遷」の後編ということで、1990年代後半から近年までのナムコのレースゲームの開発に携わったメンバーによる座談会をお届けします。, 取材/見城こうじフリーのゲームディレクター。ナムコ出身。 代表作、任天堂『カスタムロボ』シリーズなど。現在、新作『Synaptic Drive』を開発中。https://twitter.com/kenjohkohji, 取材・文/忍者増田フリーライター。元ゲーム雑誌編集者。忍者装束を着て誌面やWeb上に登場することも多い忍者マニア。https://twitter.com/Ninja_Masuda, バンダイナムコ知新「第2回 カーレースゲームの変遷 後編」岡本達郎氏、小山順一朗氏、小林景氏インタビュー ≫≫≫, 『エースコンバット』25周年企画【後編】。最高の「感動体験」を届けるためのチーム論, ゲーム版『SAO』シリーズの集大成! 『ソードアート・オンライン アリシゼーション リコリス』がいよいよ発売, 『太鼓の達人 ドコどんRPGパック!』はRPGと演奏のおいしいとこどり! 名作が新たな魅力をプラスして帰ってきた, 『エースコンバット』25周年企画【前編】2人のキーマンが語る、『エース』が歩んだ25年, ゲーム化は困難だと思われていた?『ソードアート・オンライン アリシゼーション リコリス』二見プロデューサー & ReoNaさんインタビュー. 2020年; 2019年; 2018年 ... (株)バンダイナムコゲームスが(株)ディースリーを子会社化 ; ガンダム30周年を記念した30周年プロジェクトの概要を発表; 2009年2月. ※ゲームの設置店舗、攻略法、仕様等についてのお問い合わせにはお答え出来ませんので、あしからずご了承ください。 ※製品の故障、修理等につきましては、製品に付属の取扱説明書に記載の連絡先へお願い申し上げます。 ゲーム業界の躍進が始まった1990年代、snkは業務用と家庭用の新たな2つのゲーム機を世に送り出しました。そのプラットフォームの名は「neo・geo(新たなる大地)」。業務用neo・geoは、最大6本ものロムをセットできる革命的な筐体 ゲーム内広告での当社とナムコの提携は、プレイステーション用ソフト「レイジレーサー」、アーケード用レースゲーム「ポケットレーサー」に続く第3弾です。当社ではこうしたゲーム内広告の展開で、より幅広い層へ向けてブランド名の浸透を図っていく考えです。 ゲームセンター 2020.11.28 ~ 2021.01.11 ナムコ限定景品「ドラゴンボール超 最強融合戦士ゴジータ-超かめはめ波! Enjoy the videos and music you love, upload original content, and share it all with friends, family, and the world on YouTube. タイトー 「スピードレース」 家族で温泉旅行に行ったときのホテルのゲームコーナーでプレイしました。 子供でも楽しめるレースゲームで、私はとても大好きでした。 このゲームのデザイナーさんって「スペースインベーダー」と同じ方だったのですね。 先見の明が凄� 今回の「バンダイムコ知新」は、「カーレースゲームの変遷」の後編ということで、前編に引き続き、1990年代後半から現在まで、ナムコのレースゲームのプロデュースに携わったメンバーによる座談会をお届けします。時代の流れとともに、ナムコのレースゲーム制作の内容と、その挑戦がどう変わっていったのか、ぜひ前編とともに読み比べてみてください。, 岡本達郎1983年、ナムコ入社。『ファイナルラップ』から始まり、『エースドライバー』『ダートダッシュ』『レースオン!』『500GP』など、数々のレースゲームの制作に携わる。『メトロクロス』のデザイナーとしても知られ、主人公は岡本氏がモデルとなっている。 近年は、スマホゲーム『ドリフトスピリッツ』の制作に携わった。, 小山順一朗1990年、ナムコ入社。1999年までメカエンジニアとして従事。のちに企画、プロデューサーに転身。手掛けたレースゲームは『湾岸ミッドナイト』『マリオカート アーケードグランプリ』『トラック狂走曲』など。現在、バンダイナムコアミューズメント プロダクトビジネスカンパニー クリエイティブフェロー 。コヤ所長の愛称でも有名。, 小林景1991年、電気回路の設計や配線をする電気エンジニアとしてナムコに入社。2000年に、企画、プロデューサーに転身。『湾岸ミッドナイト』や『湾岸ミッドナイト マキシマムチューン』シリーズ、『マリオカート アーケードグランプリDX』などの作品に携わる。現在、バンダイナムコ アミューズメントラボ 開発本部 本部長。, 小山:自分がナムコに入社した1990年は、まだポリゴンが出たばかりだったんですけど、最初は、筐体の構造とか機構部とか、そういうのを設計するメカエンジニアとして入ったんです。, 小林:僕は1991年に、電気回路の設計や配線をする電気エンジニアとして入社しました。一番初めにエンジニアとしてかかわったのが『リッジレーサー ※1』(1993年) になります。「車大好きです。レースゲーム作りたいです」と言って入らせてもらったので、レースゲームに優先的にアサインしてもらっていた感じですね。『ダートダッシュ ※2』(1995年)や『レイブレーサー ※3』(1995年) もエンジニアとしてかかわりました。, ※1 『リッジレーサー』1993年稼働。テクスチャーマッピングやグーローシェーディングにより、映像が飛躍的に進化したレースゲーム。公道を突っ走る快感を追求し、コーナーでは豪快なドリフト走行が味わえる。アーケードと家庭用ゲーム機で多数の続編も作られている。, ※2 『ダートダッシュ』1995年に稼働。シティコース、山道、ジャングル、雪原など、あらゆるコースを突っ走るオフロードラリー。障害物にぶつかって車の部位が取れても走れるダイナミックさが魅力。, ※3 『レイブレーサー』1995年に稼働したレースゲーム。アーケード版『リッジレーサー』シリーズの第3作目。コースが2つ追加され、ボタンによる3人称視点モードが搭載された。, ――小山さんと小林さんは、ビデオゲームの企画やプロデュースをされる前は、エンジニアだったのですね。, 小山:はい。『エースドライバー ※4』(1994年) は、岡本さんと一緒にやりましたよね。※4 『エースドライバー』1994年稼働。『リッジレーサー』と同じ基板「システム22」を使用したレースゲーム。DXタイプではハンドルと連動した左右スライドシートを採用。さらに、BOSE社と共同開発したサウンドシステムにより全身でレースの醍醐味を味わえる。, 小山:そうです。『エースドライバー』の体感システムはすごくて、本当に走っているんです。ハンドルを切ると、ハンドルの切れ角によってタイヤも曲がるんです。, 岡本:すごいレスポンスがよくて、ハンドルをちょっと切っただけでスッと動くんで、もうレーシングカートに近いような挙動の感じだったんです。, 岡本:すごくいい出来なんですけど、いろいろな問題があったんだよね。筺体を壁にピッタリつけられると椅子が動いて寄ってきて、人が挟まって危ない。だから、スペースを空けて設置するように、注意書きを書いたり……。, 岡本:ちなみに『エースドライバー』の第1ロットにはBOSE(※5)のスピーカーを入れました。, ※5  BOSE米BOSE社。スピーカーを主とした音響機器 メーカー。マサチューセッツ工科大学の教授であったアマー・G・ボーズ 博士により 設立。, 岡本:5万円ぐらいですよ、1個。だから、4つ買ったら20万円ですよね。値段が高いから「なくていいんじゃないの?」と言ったんだけど、サウンドの人が「どうしてもこれは要る」と。でも、やるというのは重要なことなんだよね。やってみないと分かんないことがいっぱいある。音は本当に最高に良かったですけど、値段の差が僕にはよく分からなかった(笑)。その時、お金もあったんですかね、バブルで。, 岡本:『レースオン! ※6』(1998年) は僕がやりましたね。みんながワイワイ騒げる楽しいレースゲームにしようという感じで作りました。このころ、だんだん難しいゲームが受け入れられなくなる流れがあった。でも、プリントシール機でゲームセンターに来るような女性でもやれるようなレースゲームを作ろうと。だから、ハンドリングとかめちゃくちゃ優しく作っているんです。追いつき性能もすごくて、どんなに離されても必ず追いつくぐらいにできている。, ※6 『レースオン!』1998年稼働。小型カメラ「ナムカム」を搭載し、ゲームに自分の顔を出せるのが特徴。最大8人まで通信対戦でき、ぶつけたり邪魔したり何でもアリの破天荒なレースが楽しめる。, 小山:ぶつけ合いも楽しいですし。世の中で初めてだと自分は思いますけど、『レースオン!』には実況システムが入っている。顔写真も撮って(後述)、レースの実況もあって、今で言う当たり前なテクノロジーが、その当時初めて入っていて。, 岡本:ロケーションテスト(※7)やっても、普通のゲームぐらいの反応しかなくて(笑)。, ※7 ロケーションテストアーケードゲームを世に出す前に、ゲームセンターなどで行われるテスト。ゲームバランスの調整や市場調査などの意味合いを持つ。, 小山:でも『レースオン!』は、そこから20年間ずっとゲームセンターにあります。そのとき周りで騒がれていたゲームは、今はほぼ現場から消えていますから。, 岡本:当時、販売の人から「インカムが上がらないと売りにくい」と言われた。でも1年ぐらい経ったら、その人が「もう1回『レースオン!』って作れないか?」と言い始めて(笑)。インカムが安定して変わらないんですって、ずーっと。だからゲーセン側も「あのゲーム欲しい」と言ってくるみたいで。, ――自分の顔を撮影してゲームに取り込める「ナムカム」を『レースオン!』で採用した経緯をお聞かせください。, 岡本:何でも新しいものを技術の人が作ってくれるので、ゲームに新要素を採り入れる一環として導入しました。ゲーム自体はもともと作ると決まってたものなので、そこに新しい試みとして顔写真を入れようと。最悪、外すつもりもありました。プログラマーがノリノリでいじってくれたんで、いい演出ができたと思いますね。顔が飛んでいったりするんですよ。クラッシュすると、アイコンとかがビヨーンと飛んでいく。, 小林:『レースオン!』のころはまだ、筐体間の通信もとても遅かったし、画像データってゲーム機の中で、非常に重いものなんですよね。なので、その転送にすごい苦労してましたよね。, ――相手カーにぶつけたり、邪魔したりして楽しむレースゲームは、『レースオン!』以前にもあったでしょうか?, 岡本:推奨はしていませんでしたが、それは『ファイナルラップ ※8』(1987年) のころからやってる人たちがいっぱいいて。, ※8 『ファイナルラップ』1987年稼働のレースゲーム。最大8人までの同時プレイを実現した通信対戦は、当時の快挙として語り継がれる。のちに、『ファイナルラップ2』(1990年)、『ファイナルラップ3』(1992年) 、『ファイナルラップR』(1994年) と3作の続編も誕生した。, 岡本:そう。ケンカが起こったとか、そういうのも聞いていて。でも、「ぶつけるのって楽しいよね」みたいな話は連綿と続いていたので、そういうワイワイゲーの最たるものとして出来上がったよね。, 小山:『エースドライバー』のころは車体がヒットしても弾かれないんです、ほとんど。だけど、『レースオン!』はボーンってめっちゃ弾くんで。, 小山:この頃、岡本さんはバイクレースゲームの『500GP ※9』(1999年) に命をかけてましたよね。, ※9 『500GP』 1999年稼働のバイクレースゲーム。世界各国を転戦して世界一のライダーを決める「FIMロードレース世界選手権」の雰囲気を、余すところなく忠実に再現したのがこの作品。レースで活躍する選手が実車とともに実名・顔写真入りで登場。, 小山:1分の1のバイクを乗せた筺体が3種類あるんです。スズキとホンダとヤマハと。それが全部違うんです。狂ってます(笑)。, 岡本:作るかどうかも決まっていない状態で、ライセンスだけ取っちゃったんですよ。ライセンス系の人が。で、「作れ」と言われて、「じゃ、作りますよ」と作ったんですけど(笑)。映像的にはもう当時としてはめちゃくちゃきれいだと思います。ほぼ実写のような。, 小山:しかも3台筐体を並べていて、真ん中のバイクに乗ってお金を3台分入れると、3画面1人で遊べるんです。, 岡本:『500GP DX』(1999年)でね。特別にホンダとヤマハとスズキのバイクの筺体を作って、3台セットで売りましょうみたいな話で、ちょっと高額な感じでやったんです。, 岡本:「ツインリンクもてぎ」っていうレース場があって、実際の「500GP」というレースが開催されていたんですけど、当時そこにプロモーションの一環としてゲーム筺体を持っていって、本物のレーサーにやってもらったらめちゃくちゃハマって……。開催日は予選が終わったら、お客さんに無料でやってもらったんですよ。そうしたら、本物のレーサーがその列に並んでて(笑)。, 岡本:「何してるの?」と聞いたら「いやいや、やるんだよ。やらせてくれ」と(笑)。アレックス・バロス(※10)というレーサーなんですけど。「じゃ、その代わり、ほかのお客さんと通信でレースができるんで、一緒にやってあげてくれる? そうしたら、好きなだけやっていいから」と言ったら、「うん、やる」と言ってね、いろんなお客さんがバロスと対戦していた(笑)。, ※10 アレックス・バロス本名、アレッシャンドレ・バロス。1970年生まれ。ブラジル出身のオートバイライダー。アグレッシブなライディングスタイルを武器に、ロードレース世界選手権のトップライダーとして活躍。2007年現役引退。, 小山:本当のバロスと、ずっとやり続けられるんですか! 彼はどんどんうまくなっていったんですか?, 岡本:だから、そういう本物志向の人にはうまくアピールできたんだけど、一般向けという意味ではあまりアピールできなくて。僕は「映像自体本物なので、思いっきりやっちゃおう」と言ってやったんですけど、ちょっとやり過ぎ感が(笑)。, 小林:岡本さんも小山さんもバイク好きですからね。バイクに興味ない自分は、横で「んー?」と首をかしげてましたけど(笑)。, 岡本:「何だこんな金かけて」みたいな?(笑)。でも、究極の二輪筐体が実現したので、僕は満足です(笑)。, ――2000年には、『トラック狂走曲 ※11』 というアーケードゲームが登場しています。, ※11 『トラック狂走曲』アートトラックをモチーフにした、2000年稼働のドライブゲーム。アートトラックの持つ独特の世界観を十二分に表現し、プレイヤーをトラックドライバーになりきらせる。基本ゲームシステムは、エリアクリア型のドライブゲーム。, 小山:『トラック狂走曲』の企画は僕です。このときはですね、まず企画の人たちが家庭用ゲームに専念して、みんな業務用の部門からいなくなっちまったんです!(笑)。業務用のスタッフはもう、1人もいなくなって。それで「なんとか食っていかなきゃね」ということで、自分とか小林くんとかが、突然このあたりから企画になったわけです。, ――エンジニアだった小山さんと小林さんが、2000年からプランナーに転身されたわけですね。, 小山:『トラック狂走曲』はもう「ネタ」ですね(笑)。レースゲームは、歴史としては、まず最初はF1系で始まって、それで公道型になりますよね。公道型といっても、箱型のレースが中心で。その後、だんだん各社のレースゲームがおかしくなってくるんですね。もうレースゲームのアイデアが切れたのか、各社がネタものをいっぱい出してくる時代だった。, 小山:はい、各社ネタが尽きてしまいまして。だから、各社おかしいんだったら、自分はヒューマンの『爆走デコトラ伝説 ※12』(PS/1998年) が好きだったので、アーケードでデコトラやろう、と。ただし、本当にちゃんとやろうということで、『カミオン』に取材に行ったりしました。『カミオン』って、アートトラックの専門誌なんですけど。, ※12 『爆走デコトラ伝説 男一匹夢街道』1998年に、ヒューマンから発売されたプレイステーション用レースゲーム。デコトラ(ペイントや電飾などで装飾されたトラック)を操作し、日本一のトラッカーを目指す。その後、多数の続編が発売された人気タイトル。, 小山:そうなんですよ。で、当時ナムコで「社長発表」というのがあったんですけど、中村雅哉社長 (※13)は、出るゲームを全部やるんですね。このゲームは、悪いことをするとひどい目にあって必ずゲームオーバーになるという仕組みを持っていまして。電車の線路にいる猫を踏もうとすると「ニャーン!」とかいって、トラックが道を曲がって線路の中に走っていくんです。そうすると、向かってきた電車とぶつかってしまい……「父ちゃーん!」という叫び声とともにゲームオーバー。その「父ちゃーん!」のシーンで中村社長、ずっと固まってました(笑)。, ※13 中村雅哉1925年生まれ。1955年に有限会社中村製作所を創業。1977年に社名をナムコへ改める。2017年死去。, 小山:みんなこれだけは「やっちまったー!」って顔でもう。僕だけは大爆笑していましたけど(笑)。, 小山:違います。冠二郎氏(※14)の曲で、特撮っぽい歌があったんですよ。それがその当時流行っていたので。AOU アミューズメントエキスポでは、デコトラを借りてきてステージにして、大木凡人氏(※15)を司会にして、冠二郎氏に歌ってもらったこともありました(笑)。, ※14 冠二郎 演歌歌手。1967年、ビクターレコードより『命ひとつ』でデビュー。1976年、コロムビアレコードへ移籍。以来、数々のヒット曲と受賞歴、3度のNHK紅白歌合戦出場を数える。2016年、31歳年下の一般女性と入籍。, ※15 大木凡人 司会者・レポーター。愛媛県出身。コミカルな芸風とは裏腹に、武道に関する造詣が深い。かけている眼鏡はだて眼鏡。, 小山:研究しましたねぇ。このトラックの波の絵? これを波絵(なみえ)というんです。女の名前じゃないですよ(笑)。デコトラ界でカリスマの波絵師が茨城に住んでおりまして、その方に波絵を頼みに行きました。『カミオン』も太鼓判を押している方だったんで、「この人のところに行こう!」と。本当に有名人で、何年待ちとか言われているような方だったのに、大きい絵をすぐ描いてくれたんです。, ――そこまで細部にこだわられたわけですね。トラックだから挙動が違うとか、普通のレースゲームと作り方が違う苦労はあったのでしょうか?, 小山:そうですね。トラックだから視点が高いじゃないですか。視点を高くすると、車のゲームって速度感がなくなる。ゆっくり動くように見えてしまうので、時速300キロぐらいで走っています(笑)。で、画面には「60km/h」って出ている。, 小山:あと、トラックでドリフトとかスピードを極めてもしょうがないので、どういうふうにしたかというと、車をぶつけたら減点というルールになりまして。反対車線をはみ出してどんどん行きたいじゃないですか。そのときにぶつかるとマイナス2秒となるわけです。人は絶対ひいてしまわないように、「キャー」と逃げるようにしてましたけど(笑)。そういう、ちょっと社会のモラルから逸脱したような「はっちゃけた体験ができるよ」というところにフォーカスするために、すごいギリギリのせめぎ合いを法務とやったんです。, ――レースゲームの歴史の中で、『トラック狂走曲』のようなアクセントのある作品があったのというのは、とても興味深いですね。, ――そしてついに『湾岸ミッドナイト ※16』(2001年) が登場します。制作の経緯を教えてください。, ※16 『湾岸ミッドナイト』2001年稼働の業務用対戦バトルレースゲーム。。楠みちはるの人気漫画『湾岸ミッドナイト』をゲーム化した。『湾岸ミッドナイトR』、『湾岸ミッドナイト マキシマムチューン』シリーズなど、現在まで多数の続編、派生作品が誕生している。, 小山:次のレースゲームをどうしようか考えているときに、小林くんに「『頭文字D』とか、そういう漫画の題材つきのゲームはどうかねぇ?」と話したんです。すると小林くんが、『湾岸ミッドナイト』のほうを推してきた。彼が持ってきた『湾岸ミッドナイト』を読んでみたんですけど、めっちゃ硬派なんですね。暗くて(笑)。でも、「これが本物や!」と言われたらそうなのかなと思って、それを持って当時、元気さん(元気株式会社)に開発を依頼に行きましたね。, ――そのとき、題材の候補は『湾岸ミッドナイト』と『頭文字D』のほかにもあったんでしょうか?, 小林:いや、その2つですね。車漫画といえば、その時はもう、その2つが代表で。まぁ『頭文字D』の1人勝ちだったんですけど、その陰に『湾岸ミッドナイト』があったんですよ。, 小林:とにかくレースゲームにドラマ性を持たせたいとか、泣かせたいとか思ったんで、それには『湾岸ミッドナイト』のほうが合っているかなという。まぁ、かなりの思い込みですね。 友人の古代祐三氏(※17)に依頼して、音楽面でも泣かせようとしましたね。, ※17 古代祐三 ゲーム音楽を手がける作曲家、ゲームプロデューサー。エインシャント代表取締役社長。代表作に『イース』『ソーサリアン』『アクトレイザー』『シェンムー』『湾岸ミッドナイト マキシマムチューン』『世界樹の迷宮』など。, 小山:小林くんが「古代祐三ってやつがいてさ」と言うんですね。「えー! 古代祐三を知ってるの?」と言ったら、「高校の同級生でよく一緒に遊んでいました」と。, 小林:当時、古代氏はいろんな音楽制作の中でけっこう疲れていたらしくて、「もう音楽はやめようと思っているんだ」と言っていました。そこで、今回の企画の熱さを伝えて……。レースゲームだけど、アーケードだけど、泣けるものを、とにかく感動できるものを作りたい。「そういう作品を作るためには、古代、お前の曲が欲しいんだ」みたいな話をして、書いてもらいました。, ――説得をしたわけですね。いいお話です。それは、『湾岸ミッドナイト』無印のお話ですか? それとも『湾岸ミッドナイトR ※18』(2002年)や『湾岸ミッドナイト マキシマムチューン(以下、マキシマムチューン) ※19』(2003年)ですか?, ※18 『湾岸ミッドナイトR』『湾岸ミッドナイト』の続編となるレースゲームで、2002年稼働。前作では隠しカーであった「悪魔のZ」など、ライバルたちのマシンが使用可能になり、28種類ものマシンでレースを楽しむことができる。, ※19 『湾岸ミッドナイト マキシマムチューン』 『湾岸ミッドナイト』の流れを組むレースゲームで、2003年稼働。誰もが簡単に楽しめる、ナムコの新ドライブゲームエンジン「ENMA(エンマ)」を採用。ストーリーモード、タイムアタックモード、乱入対戦モードの3つが用意され、車両は全6メーカー19種類が登場。現在この『マキシマムチューン』は6まで(とその派生作品が)誕生している。, 小山:今までレースゲームのキャラクターものはなかったから、自分たちが最初に出そうと思うわけですね。それには、やっぱり元ネタがあったほうがいいなと思いました。『トラック狂走曲』とかやっていて。, 小山:『湾岸ミッドナイト』って、車のところにキャラクターが出てきてセリフをしゃべるようになっているんですね。最初、今までのレースゲームで名前しか書いていないところに、キャラクターを重ね入れて実験してみたんですが、Aというスカイラインが「誰々のスカイライン」に変わるので、走行する車の動き自体にも、何かちょっとクセや人間味が出ている感じになって、格段におもしろくなったんですね。CPUと戦っているだけなのに。今までは1位、2位、3位の順番のNPC(ノンプレイヤーキャラクター)の車という意味でしかなかったものが、キャラクターを乗せたらめちゃおもしろくなったので、「それはいくしかないよー」と動き始めたんです。, 小林:実はその後のAOU 2002 アミューズメントエキスポで、うちの『湾岸ミッドナイト』と、セガさんの『頭文字D Arcade Stage ※20』(2002年) が、同時にお披露目となったんです。, ※20 『頭文字D Arcade Stage』2002年セガ稼働。しげの秀一による漫画『頭文字D』が原作のレースゲーム。漫画に登場するキャラクターたちとカーバトルを行い、愛車をチューニングしていく。現在までに、多数の続編が誕生。, 小山:向こうは、めっちゃ人気があって。こっちも、それでもロケテストは、けっこう良い結果だったわけです。でも、あとで『頭文字D』のインカムを聞いたら、1台あたりが向こうは(うちの)6倍で、圧倒的ですよ 。「『頭文字D』にしとけばよかったじゃないか!」とは言わなかったですけど(笑)。――インカムがそこまで違ったことに対する心情は……?, 小林:相当あれは悔しかったですねぇ。でもその後、それをバネに『湾岸ミッドナイト』シリーズが続いていくんですよ。, ――『湾岸ミッドナイト』シリーズは現在まで続いていますものね。『湾岸ミッドナイト』無印があって、『湾岸ミッドナイトR』があって、『マキシマムチューン』シリーズが『6』まで誕生しています。, 小林:研究しながら、「ならでは」という部分も追求していきました。ストーリーモードをクリアしていくと、どんどん車がパワーアップしていく。そういう概念は『頭文字D』にもなかったんですね。スタッフが車好きばっかりだったんで、初めはやっぱり企画会議でマニアックな路線へいくんですけど、「いやいや、そこはもっと普通のお客さんの目線で考えようよ」とみんなで思い直して。超シンプルに、もうハンドリングかパワーか、どちらかに振ります……と。それでもお客さんには十分なんですよね。ちゃんと、自分の好みや思いで愛車をどんどんセッティングしていくというニーズが満たせるようにしていきました。, 小山:それまでは、けっこう思い込みでゲームを作ってたんですよ。そうじゃなくて、きちんとマーケティング的なアプローチで商品開発しなきゃいけないなと気づいたので、『マキシマムチューン』シリーズはそれまでと全然違います。お客さんのターゲットも決まったけど、競合商品である「『頭文字D』を追い落とす」という目標もはっきりと決めました。, ――『マキシマムチューン』シリーズからは、そういった方向性の変更がなされているのですね。, ――自分の車のデータを記録できる磁気カードは、どのタイトルから導入したのでしょうか?, 小林:磁気カードは『マキシマムチューン』からです。先行して『頭文字D』が磁気カードを採用したんですね。記録して何度も遊べるのはいいねということになって、それをじゃあ、うちではもっと魅力的なものにして採用しようと。『頭文字D』の場合は、名前とクリアしたところが印字されるだけなんですが、うちは情報を何度も書き換えられるほうがいいよねって。で、クラスを付けました。最初はN級から始まって、C級、B級、A級とか。乗っている車も名前を書きましたし、あとは称号ですね。今ではもう当たり前のように、称号ってゲームで何でもついてますけど、けっこう走りですよね。, ――技術的に、ドライビングシミュレーターとして、『リッジレーサー』以降のビジュアル面の苦労にはどういうものがありましたか?, 小山:『マキシマムチューン』では、実は道幅が今までの1.5倍から1.8倍、建物の高さが東京タワー3倍ぐらいの大きさだったりするんですね。それは、カメラを積んで首都高を撮った映像を画面で見ても、実際に走って感じた首都高の雰囲気と全然違うと思ったのが発端なんです。「これはもしかしたら、目で見た光景を脳が再生したものと、カメラの映像では感じ方が違うんだな」と思ったんです。そこで、当時デザイン担当だったスタッフを車に乗せて、目で見た風景をスケッチブックにずっと描いてもらいました。首都高を走っている車の中で、延々とデッサンです(笑)。, 小山:実際に具合が悪くなっていたんで、かわいそうなことをしました(笑)。でも、そのおかげで『マキシマムチューン』では、4対3の画面の中に、実際に脳で見た首都高の姿が完成しました。あれはすごかったですね。「あっ、これが首都高だな」という印象になりました。, 小林:ハードの描画のパワーが上がってからは、さらにそこが重要になってきましたね。カメラで写した画角そのままじゃなくて、いかに人が感じるような見え方にするかということに気を遣うようになった。『湾岸』無印と『マキシマムチューン』では、やっぱりもう見た目が全然変わっています。そこは1から作り直していますから。, 岡本:観覧車なんか、ものすごいスピードで回さないと回っているように見えない。止まっている絵になっちゃうので、観覧車がすごいスピードで回っている作品もある(笑)。そういう嘘はたくさんついていますね。, ――『マキシマムチューン』のウリである、ストーリーモードのシナリオ作りでの苦労はありましたか?, 小林:とにかく原作漫画をひたすら読みました。エイジ編とかマサキ編とかいろんなのがあるんですけど、そういうシナリオを10話の中に落とし込むんですね。まず原作を読んでセリフを全部抜き出しました。そこから「これが名ゼリフだよね」というのを拾い出して。それが(ゲームの)第何話のレースに出てくるのか、当てはめていく作業をひたすらやっていましたね。自分は当時ディレクター兼プロデューサーだったんですけど、人手が足りないので自分も現場でそれを延々とやっていました。, 小山:初代『マキシマムチューン』は20話しかなかったんですけど、『マキシマムチューン2』(2004年)は80話もあったから、大変でしたよね。, ――『湾岸ミッドナイト』シリーズが、これだけ長く続くというのは、当初は想像されていたのでしょうか?, 小山:思っていなかったです。でも、『頭文字D』と戦うことに関しては、「『鉄拳 ※21』(1994年) と『バーチャファイター ※22』(1993年) の関係になろうよ」と言っていました。もうプロデューサーとしては、本当は『4』が作りたい、『5』が作りたい、世界同時発売したい……などと考えているのに、会社の予算とのせめぎ合いで、ちょこちょこ『DX』や『DX Plus』など派生作を作ることになって大変でしたけど(笑)。, ※21 『鉄拳』1994年に稼働した、ナムコ初の3D格闘ゲーム。4つの打撃ボタンや10連コンボ、そして個性的なキャラクターなどの独自の内容で、他社の対戦格闘ゲーム とは一線を画していた。いまなお新作登場のたびに大きなセールスを記録中。, ※22 『バーチャファイター』1993年にセガより稼動した対戦型格闘ゲーム。世界初の3D格闘ゲームとして話題になる。「新宿ジャッキー」や「ブンブン丸」などの通り名を持つ名プレイヤーも生まれた。, 小林:問題は、じゃあどこを変えて出すの? というところですよね。車種やコース追加以外での目玉って、そうそうないですよね。だから、そこがけっこう大変ですよね。, 小山:ただ、これだけの速度でいろいろと出したおかげで、ずっと鮮度が高い状態が続いて、お客さんとしてはなかなか飽きるヒマがない状態になるわけです。だから、結果的にはあながち悪くなかった感じですね。『バーチャファイター』 に対する『鉄拳』も、たくさん出してよかったですもんね。結局それで、予算もいい方向に働くんですね。, ――制作サイドが考える、本タイトルが長く続いて成功している理由を、お聞かせいただけたらと思います。, 小山:いや、本当です、本当です。そこだけしかやっていないです。『湾岸ミッドナイト』のお客さんは誰なのかを、プロジェクトメンバーがトップから下まで全員知っていて、叩き込まれているということですね。, 小林:そうですね。まぁ、もっと分かりやすく言うと(笑)、とにかく高校生から大学生ぐらいの若者にすごく支持してもらっていることが、長く続いている理由だと思います。普通こういうゲームってナンバリングが続いていくと、どんどん先鋭化して、どんどん難しくなるし、 人口も少なくなっていく。ただ、『湾岸ミッドナイト』というのはそこの間口をすごーく広く設定していて、誰でも入ってこられるものにしているので、卒業した人がいても、次に高校生になった人がまた入ってくるんですよね。なので、これだけ続いているんだと思います。1プレイですぐにおもしろさが分かるし、友達に自慢しやすくて魅力が伝えやすいことなどを、とことん考え抜いて仕様として突っ込んであります。それが今、小山が言っていた「消費者のために作っている」ということの中身ですね。, ――『マリオカート アーケードグランプリ ※23』(2005年) についてもお話を伺えますか。, ※23 『マリオカート アーケードグランプリ』2005年稼働。任天堂が発売した『マリオカート』シリーズのアーケードゲーム版で、ナムコが開発した。自分の顔がゲームに入るナムカム搭載。リライタブルカードにデータを保存できる。グランプリモード、タイムアタックモード、通信対戦モードの3つのゲームモードが用意されている。, 小山:こちらの言い出しっぺは私でして。自分は岡本さんの『レースオン!』のシステムがお気に入りだったし、『マリオカート』をアーケードゲームで作りたいと思い企画書を書いたんですが、任天堂さんに1つだけ「小山さん、これはやめてください」と言われた要素がありました。マリオがルイージの首にプスって吹き矢を刺すと、ルイージがガクッとなるんですが、「こういうのはやめたほうがいいです。ルイージが痛そうじゃないですか」と(笑)。, ――確かに、マリオのイメージではなさそうですね(笑)。この作品も『レースオン!』と同様にナムカムを導入されているわけですよね。, 小山:ターゲットが大きく異なっていましたね。本作を最初に売ろうと思ったのは、いわゆるゲームセンターで、カップルや友達どうしでカードを作って継続的に遊んでもらおうと考えていました。でも実は、一番爆発したのはそこではなかったんです。イオンです。イオンで中心的にカードをガーッと消費していたのは、小学生だったのです。それが分からなかったですよね、最初。, 小山:小学生があんなに継続的に遊んでくれるとは思っていなかった。なので、ターゲットを切り替えて、完全に小学生やファミリーが楽しめるようにチューニングしきったのが『マリオカート アーケードグランプリ2 ※24』(2007年) です。『1』はどっちつかずですが、『2』は完全に、ショッピングセンターに売ることを最初から考えて作ってありますね。, ※24 『マリオカート アーケードグランプリ2』『マリオカート アーケードグランプリ』の続編。笑える新フレームの追加など、ナムカムをパワーアップ。レースで集めたマリオコインをカードに貯めていくと、スペシャルアイテムやキャラクター専用カートなどの賞品がもらえる。, ――その後、『マリオカート アーケードグランプリ DX ※25』(2013年) が登場します。先に『マキシマムチューン4 ※26』(2011年) で導入していた、全国のプレイヤーの分身と対戦できるモードも採り入れられていますね。, ※25 『マリオカート アーケードグランプリ DX』 2013年稼働。『マリオカート アーケードグランプリ』の3作目。実況は声優の松本梨香が担当。2人チームの合計ポイントを競う「ふたりで協力モード」や、全国のプレイヤーの分身と対戦してポイントを貯めていく「全国対戦モード」を新たに実装。, ※26 『湾岸ミッドナイト マキシマムチューン4』 2011年稼働。『マキシマムチューン』シリーズの4作目。 全国ネットワーク対応により「全国分身対戦モード」が実現。インターネットを介して全国各地のプレイヤーの分身と戦える。マツダ、ミツビシ、ニッサン、ルーフ、スバル、トヨタから人気の8車種が加わり、新コースの「みなとみらい線」 も追加。, 小林:はい。これまでのように、子供たちにとにかくたくさん遊んでもらおうと考えていたんですね。そこで『DX』では、全国対戦モードでいろんな人と戦えるようにしようとか、さまざまな要素を入れていたんですけど、現在、子供たちは本作ではあまりカードは使わないですね。それよりはティーンとか、20代前半の若者やカップルとか、そういった人たちがワイワイ遊ぶほうが多くなっています。だから、ちょっと狙いはそっちに切り替えていますね。, ――前作『2』から5年経過し、同じ作品であってもまたプレイヤー層が変わってきたわけですね。, 小山:『マリオカート アーケードグランプリ』のロケテストのときは、『マリオカート』ってすごいなと思い知らされました。プリントシール機をやっていた女の子たちが出てきて、「あー! このゲーム知ってる! 『マリオカート』知ってる人、やろうやろう!」となるんですけど、知ってる人って「今置いたばっかりのゲーム機だよ!」と(笑)。, 小山:知ってるわけないじゃないかと思ったけど、『マリオカート』というブランドが、プリントシール機しかやらない女子高生を動かしたのには驚きました。スーパーファミコン版すごい!, ――当時、性能の高い家庭用ゲーム機がたくさん出てきましたが、それがアーケードのレースゲーム制作に与えた影響というのはあったのでしょうか?, 小山:影響は計り知れないですよね。だって車のゲームって、常にそのときのハードのベンチマークのような状態だったと思いますよ。アーケードとして、グラフィックの追求によるリアルさを求めるということは、たぶんプレイステーション2が出た時点で終わっています。中身のおもしろさで勝負するという方向にするしかない。どれだけ操縦性能を本物にしても、お客さんが来ないこともよーく分かった。なので、対戦ツールとして研ぎ澄ますのと、ゲームのおもしろさで研ぎ澄ませていくほうに振れたので、結果的にはよかったんじゃないかと思いますね。グラフィックに頼らなくなったというのは。, ――今回もお話を伺って感じたんですが、皆さん素晴らしいタイトルを作られていて、そしてナムコというブランドもある中で、重圧を背負ってゲーム作りをしているという感じより、作る意欲や楽しさのほうが非常に強く伝わってきました。それが素敵だなと思います。, 岡本:開発費もかけられたし、新しい技術もバンバン採り入れていこうという時代でしたね。ぶっちゃけ当時って、『ファイナルラップ』から1990年代ぐらいまで、何かとりあえず作っとけばそこそこ売れた時代でもあったので(笑)。ゲームセンター自体が景気のいい時代だった。だからそんなにプレッシャーはなかったですけどね、僕は。, 小林:『マキシマムチューン』の時代ぐらいからは、ちゃんと開発も収支も考えるようになった。でも、じゃあそれで「今は予算背負っているからプレッシャーがあるか?」と聞かれると、根っから作るのが好きなので、おもしろいという感情のほうが勝ちますよね。, 小山:売ることよりは、お客さんがゲームをプレイしてキャーキャー騒いでいる姿が見えていることのほうが楽しいですよね。自分がすごいことしてとんがって目立ちたいというよりも、お客さんに「超このゲームハマるぜ!」と言わせたい。そこしかやりがいがないです。その結果、お金になって返ってくると。, 岡本:きっと上が苦労していたんですよ。止めてたんですよ、真上から来るプレッシャーを(笑)。そっちのほうが、下がいいものを作れるということを分かっていたので、外野からの声は上で止めていたんだと、僕は思いますけどね。, ――ナムコはエレメカ(※27)の時代から脈々とレースゲームを世に出しています。レースゲームにかける思いというのは、当時からスタッフの皆さんも強かったんでしょうか?, ※27 エレメカエレクトロニクスとメカトロニクスを組み合わせて作られた造語「エレクトロメカニカルマシン」の略。ブラウン管を使わないすべてのアーケードゲームを指すという分類が一般的。, ――それは車好きな人が制作者に多かったからでしょうか? それとも、会社として「レースゲームを作ろう」みたいな風土があったのでしょうか?, 岡本:『ポールポジション ※28』(1982年)とか『ファイナルラップ』の頃は、車好きな人が多かったかもしれないですね。鈴鹿の8耐を見に行く人たちとかいっぱいいました。バイク通勤していた人も多かった。僕もそうですけど。, ※28 『ポールポジション』1982年稼働のレースゲーム。当時はトップビュー視点のレースゲームが主流で、本作の立体的な表現はゲーマーに衝撃を与えた。1983年には3種類のコースが追加された『ポールポジションⅡ』 も登場。, 小山:「スポーツカー最高!」の時代に入社しているので、いい車のレースゲームを作るのは当たり前というか、みんながやりたいことでした。そこでどんどんテクノロジーが発展していったら、いいレースゲームを作ることについては、もう当たり前のようにやるだけです。, 小林:経営方針として「レースゲーム作りなさい」というのは一切なかったという認識です。どちらかというと、会社の中にとにかく車大好き、バイク大好き、レース大好きという人があちこちにいたので、どんどんいろんなラインが出てきたという、そんな感じですね。, 小山:だって、セナファンの女性もすごい多くて、セナが事故で亡くなった時に大変なことになるような時代なんですよ。トレンディードラマの女王の鈴木保奈美が、F1の解説者と結婚しちゃっていたぐらいですから(笑)。, 小山:それぐらい車はすごかったので、「車をやれ」と言われたんではなく、自然に「車をやんなきゃ」という気持ちを持つのが当たり前な時代だったんです。, 取材/大堀康祐ゲームプランナーなどを経て、仲間3人とともに1994年にゲーム開発会社マトリックスを設立。2016年にゲーム文化保存研究所を設立。, 取材・文/忍者増田フリーライター。元ゲーム雑誌編集者。忍者装束を着て誌面やWeb上に登場することも多い忍者マニア。https://twitter.com/Ninja_Masuda, バンダイナムコ知新「第2回 カーレースゲームの変遷 前編」大杉章氏、岡本進一郎氏、岡本達郎氏インタビュー ≫≫≫, 『エースコンバット』25周年企画【後編】。最高の「感動体験」を届けるためのチーム論, ゲーム版『SAO』シリーズの集大成! 『ソードアート・オンライン アリシゼーション リコリス』がいよいよ発売, 『太鼓の達人 ドコどんRPGパック!』はRPGと演奏のおいしいとこどり! 名作が新たな魅力をプラスして帰ってきた, 『エースコンバット』25周年企画【前編】2人のキーマンが語る、『エース』が歩んだ25年, ゲーム化は困難だと思われていた?『ソードアート・オンライン アリシゼーション リコリス』二見プロデューサー & ReoNaさんインタビュー.

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